那須に移住してみた

都会人が田舎に移住する経験を綴ってみました、これから都会を離れ田舎に移住をお考えの方に少しでも参考になれば幸いです。

プロフィール

管理者情報

ブログネーム;東照院 花風

住所;栃木県那須郡

連絡先:netgalapagos@gmail.com

サイトURL :https://netgalapagos.com

プロフィール

初めまして、 花風 (kafu)と申します。

東京生まれ東京育ち子供は僕だけの一人っ子で約33年東京に住んでいました。父は映画業界、母は個人事業主として働いている共働きの家庭で育ちました。社長と言う名称に憧れ意味もわからず社会人になって間もなく独立し、いろいろな失敗もしながらそれでも自分に与えられた時間を苦労しながらですが勝手に使って生きています。

 

子供時代

中学から高校進学の時に自分が「養子」であることを知りました、両親ともそのことは隠していたのですが、進学時の書類で知ることになったのです。

僕「先生、ここ長男じゃなくて養子って書いてあるよ!間違ってる!!」

担任「ん?そうかぁ、後で調べて置くよ」

そんなやり取りがあり、先生は慌てて母親を呼びだしたようで、その後、事実を知ることとなったのです。暫くは落ち込んだり悩んだりしましたが、それまでの自分の育てられ方を振り返ってみれば何一つ不自由なことは無く、人一倍愛されて育っていると気づきました。それからというもの以前のように何事も無かったかのように本当の両親として接して過ごしました。

両親は僕がやりたいと言うこに反対したことが無く、叱られた記憶もありません。進学の時も両親はどこの学校へ行けとかは一切言わない人たちでしたので高校進学も大学進学も全て自分で決めました。大学進学時は丁度、田中角栄さんの時代で「日本列島改造論」だとかで高度成長が目覚ましい時代でしたので、建築家が良いのかな?それとも医者?自分の中では、ほぼ二択でした。普段は絵を描くのが好きだったので本当は美大に入りたかったのですが、流石に絵では食えんだろうと思ったことと頭もさほど良くはないし、こりゃ建築家しか無いなと言うことで、私立の建築科に入学、そこでは意匠系の教授に空間デザインを教えてもらい卒業したのですが、3回生、4回生の時に外部での実習で何故かシンクタンクで都市計画の部署で実習することになったのです、その当時は「本州四国連絡橋」と言っていましたが今で言う「瀬戸大橋」のことで、完成後の周辺町村の都市計画シミュレーションみたいな研究をしていたのだと思います、当然僕などはぺいぺいも良いところなので、やったことと言えば地図の色塗り、報告書の清書などです。パソコンが普通になった今では考えられないような仕事でした。

 

就職活動

大学卒業前の3回生、4回生のころ仲間が就職活動をしている時に僕はその実習先にアルバイトに来ていた子と仲良くなり付き合い始めました。部署は違っていたのですが昼食の時間には、おそらく初めてであろう手作り弁当を彼女が持参して来て僕の席で一緒に食べました。上司のみなさんが見ている前で恥ずかしかったのですが、彼女は意外に平気でニコニコしていました。上司のみなさんは僕らがまだ子供っぽく見えたのか以外にも温かい目で見てくれて、しかも彼女を僕のいる部署に移してくれて隣の席にしてくれました。上司のみなさんは日本で指折りの研究者でずば抜けて頭の良い人達ばかりでしたので、おそらく僕のことなんかは「どうせお味噌だ」くらいにしか見ていなかったんだろうと思います。そうこうしている内に彼女の方が実習だとかで止めることになって、僕はそのままシンクタンクに残りました。その後も彼女とは付き合い続けていて大学にまで連れて来て授業をさぼって喫茶店でデートしたりしてました。

就活もせずにその様なことをしていたので罰が当たり自分のやりたいこととは違うところに入ってしまうと言うお粗末な結果となったのです。そこは実習で行っていたシンクタンクです、そのシンクタンクは当時、日本で3番目の凄いところだったようで、本当なら、とても自分なんかが入れるような所では無く院卒は当然で中でも優秀な人で僅か数人しか入れないところだったのです。

しかし、そんな所に何故かお情けで入れてもらいました、当然お味噌だったと思うのですが、実習で行っていた都市計画部の部長さんと、その下の優秀な研究員の方に可愛がられていたおかげで声を掛けてもらい特別にお味噌入所となった訳です。しかしそこからが大変でした。建築のデザイン志望だった僕が文章を書く羽目に流石にこいつには荷が重いと思ったのか以前のように地図の作成のような仕事にしてくれたのです。実際にその様な仕事は優秀な頭の良い研究者には不向きな仕事で、かと言って誰かがやらなくてはならない仕事でもあったのです。

 

社会人

大学を卒業してそのシンクタンクに1年ちょっと居ました。流石に辛くなって部長さんに辞めたいと相談して辞めることになりました。

その後、新聞の求人欄に赤鉛筆で丸を付け面接に行きました。そこは内装屋と一般的に言われている店舗の設計施工の会社で、7名くらいでやっている会社でした、履歴書をもって面接に行ったのですが、あっけなく「明日から来てください。」と言うことになり目出度く入社、社長曰く「こんなところに良く来てくれてありがとう。」みたいなことを言われたと記憶しています。しかも、入社して間もなく社員旅行となり、社員全員と下請け業者さんとで大型バスをチャーターして温泉旅です、何処に行ったかも記憶にありません。後から聞いた話なんですが、大学出は僕が初めてだったらしく歓迎会を兼ねたものだったらしいのです。

シンクタンが頭脳集団で忘年会など会食の際も「日本のエネルギーは・・・」みたない難しい話をしながらお酒を飲む人たち・・・に反して次に行った会社と来たら大学出もいないような所でした。

実は僕は凄く内向的な性格で大勢で大騒ぎするようなことは大の苦手で、なんとなくわかるとは思うのですが、建築関係の職人さんと言うのは、ほとんどの人が大酒のみで、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎが大好きで「おい!学士様こっち来て飲め飲め」みたいな感じでいじられてメチャクチャ辛かったのを覚えています。

仕事はいきなり1つの店舗を任されてデザインを考えて図面を描きそれを抱えて現場に行って現場監督をして完成させると言う仕事でした。何せ初めてなことだったので右も左もわからないままスタートしました。現場でわからないことは職人さんに聞いたりして覚えました。「学士様それわかんないの」とか馬鹿にされながらも皆親切に教えてくれて意外にも現場は楽しかったのです。

 

倒産

入社して2年経ったくらいだったと思うが会社が倒産した。それを知ることになった当日も朝起きて「さあ!今日も現場へ行くぞ」と支度をしていると電話が鳴り先輩から「もう現場へは行くな!」と、何が何だか解らず「でも行かないと現場が困ります!」と言うと「会社が倒産したから、現場へも会社へも行くな、会社には債権者が押し掛けて来て危険だから行くな!」という寝耳に水な出来事、突然、職が無くなった。

 

世間知らず

会社が倒産して職が無くなったが、特別困ったとは感じなかった、と言うのもまだ両親の元で暮らしていたし悲壮感も無く呑気なものだった。親も特別心配する様子も無くただ見守ってくれていたと思う。暫くして仲良くしてくれていた職人さんから「今どうしてる?」と電話があり「何もしていません」と答えると「レストランの改装の仕事あるけどやるか?」と、「あっ!はいやります」と軽く返事をしてしまっていました。今考えれば本当に世間知らずで、その職人さんも債権者の一人で、その仕事をやって得られた利益を「よこせ」なんて言われてもおかしくない状況だったと思います。

しかし、その時は全くそんなことは心配せず、能天気に紹介してくれた仕事を受けて完成させました。もちろんその後も心配したようなことはありませんでした。そのことが付き合いのあった職人さんに広がったのか、仕事を紹介してくれる人が何人か出て来ました。

「ん?これ行けるんちゃう?」

無謀にも独立すると言うことになったのです。バブルの時期だったのか、どう言う訳かトントン拍子に仕事が続き、事務所も知人からここ使うかと言うことで、赤坂見附の一ツ木通りに面した小さな5階建てのビルの5階ワンフロアーに事務所を構えることになったのです。仕事も紹介してくれる方が増えレストラン、喫茶店、和食割烹、美容室、ホテル、博覧会、などなどいろいろなことをやりました。何だかんだで5年くらいやったでしょうか、それからバブルもはじけ仕事も薄くなって来たのでスタッフ2名に辞めてもらい事務所を晴海に移しました。

このころには、すでに結婚もし子供もいました、結婚についてもいろいろあったのですがここでは話すのを控えます。

暇になったので、近場で日帰り旅などをして息抜きをしていました。その時たまたま行ったのが栃木県の那須でした。これが移住するきっかけとなったのです。

 

移住

本当に行き当たりばったりと言うか、5月のゴールデンウィークにドライブ旅行で那須に来ていた時にたまたま通りがかったところに「売地」の小さな看板がその土地に立っていて道路を挟んで遠くを見ると那須の山々がそれは綺麗に見渡せました。「こんなところに住むのも良いな~」と思いその看板に書いてあった連絡先に思わず電話をしていました。すると電話に出た不動産屋のおっちゃんらしき人がぶっきらぼうに「あ~、あの土地欲しいの?1000坪だけど」と言った。都会人である僕は「え~、1000坪もあるんですか?」と答えた。都会では敷地が100坪もあったら大豪邸である。なんだか感覚が麻痺してきた。とても1000坪なって言う広過ぎる土地は無理だとすぐに電話を切った。その後山の上の方にあるホテルのレストランで食事をして温泉を楽しんだ。

一人で温泉につかっている時にさっきの土地のことが気になって仕方がなかった。いろいろと考えが頭の中をめぐって、車でのアクセスでは東北自動車道で那須インターまで、途中休憩を入れても1時間半から2時間弱、例の土地までは車で5、6分ってとこか、電車では新幹線で東京駅から那須塩原駅まで約1時間15分くらいなもんだ。

通勤

もし通勤するとすれば、かかる時間としては今と然程変わらない、今だって私鉄沿線に住んでいるので晴海までは1時間半は悠に係る、だとすればあの土地から那須塩原まで車で行きそこから新幹線で東京駅まで、そこから晴海ふ頭行のバスで事務所の前まで行ける。1時間45分ってところか通勤代は掛かるが体は楽だろう、などと思いを巡らせ温泉を出るとまた先ほどの不動産屋に電話していた。

僕「あの~、あの土地っておいくらなんですか?」

不動産屋のおっちゃん「坪3万だな」

僕「一坪あたり3万円ですか?」

ん、メッチャ安い都会では考えられない価格である、それでも1000坪となれば3000万円である。さすがに即買いますとは答えられなかった。

僕「ちなみに、あの土地を分割することは出来るんでしょうか?」

不動産屋のおっちゃん「え~、無理無理」

僕「そこを何とか、三分の一くらいに・・・お願い出来ませんか?」

不動産屋のおっちゃん「まあ、ちょっと考えてから電話するよ」

と切られてしまったのす。これはダメなんだなと思い半ば諦めて家路につきました。数日後その不動産屋のおっちゃんから連絡があり

不動産屋のおっちゃん「分割してやるよ、最低で一反部だな」

僕「一反部?」

意味がわからなかった。

不動産屋のおっちゃん「一反部、田んぼ一枚分300坪だよ」

ん、300坪だったらなんとかなるかと思った。

僕「それならお願いします。」

と返事をしてしまいました、その時はまだあの那須の地に住むなんて考えていなかったのです。都会では考えられないくらい安く広い土地が手に入るってことだけで舞い上がっていたのです。

まあ、こんな世間知らずで思慮に欠けるというかラッキーだけで人生生きて来たようなアホな人間です。

投稿日:2021-01-24 更新日:

執筆者: